特集記事

「VR-MD」プロトタイプ実装

VR空間内で動く分子を「触り、つまみ、引っ張る」ことで、
新しい化学教育のカタチを示したい。
そんな想いを共有する東京大学の研究グループと
豊田中央研究所(以下、豊田中研)が連携し、
スマートフォン用アプリ「VR-MD」※1
プロトタイプを完成させた。教育にとどまらず、
研究やものづくりの未来も示すアプリへの期待は大きい。

※1「VR-MD」の由来はVirtual Reality – Molecular Dynamics

まるで分子に触れているような「VR-MD」

スマートフォンに取り付けられたメガネを覗いてみると・・
目の前で多くの水分子が細かく動きながら、くっついたり離れたり。
まずは分子が常に動いていることに驚く。

歩いて前に進むと分子が近づいてきて前後左右上下あらゆる角度から覗き込めるだけでなく、分子の中に入っていくこともできる。ああ、分子は立体だったんだと納得している自分に気付く。

そして分子を触ろうと手を伸ばしてみると、画面の中の分子を「つまんだり、引っ張ったりできることにさらに驚き、かなり楽しい。

これまでうまくイメージできなかった「分子」を直感的かつ視覚的に理解できたような気がしてきた。
こんな体験ができるのが、今回紹介するアプリ「VR-MD」だ。

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このアプリは東京大学大学院工学系研究科応用化学専攻の佐藤 宗太特任教授を中心とする研究グループと豊田中研が連携して開発したもので、現在はプロトタイプの段階だ。

東大で分子構造解析の最先端領域での研究に取り組む研究者と豊田中研の量子コンピューティング研究領域はなぜ「VR-MD」を開発したのか、佐藤宗太特任教授と豊田中研の松田健郎氏に聞いた。

写真左:東大 佐藤特任教授、写真右:豊田中研 松田氏

課題を突き合わせるとゴールのVR-MDが見えた

豊田中研は研究と創造によって産業とその基礎の発展に尽くし人類の継続的反映に貢献するという理念のもと、技術体系の新しい核創りにより新産業を起こすことを目標としている。そして新しい概念や技術の創出のために、従来から東京大学藤田誠卓越教授の研究グループと協力関係にあり、双方の研究者による自由な議論の中からさまざまな課題が見出されてきた。

豊田中研でAIや計算技術による人の能力拡張の研究に従事する松田氏は、兼ねてからAIとの協働による教育効果の検証に悩んでいた。

松田◆
「私は人とシミュレーションやAIの協働によるひらめきや発想がモノづくりにプラスアルファを与えると考えていましたが、媒体としてVRを活用したときに果たしてその教育効果はどうなのか? という疑問が常に頭の片隅にありました。VRでの新しい経験の教育効果をどう検証したらよいかがよくわかりませんでした」


一方、東京大学の佐藤特任教授は今の化学教育のあり方に疑問を感じていた。世の中のあまりに多くの人々が、「分子」というコトバに、そして分子を見つめる学問である有機化学に拒否反応を示すのだ。


佐藤■
「高校生や異分野の研究者と話をしていると、分子の評判がよろしくないのです。「分子は難しい、分子はわからん」と皆さんに言われる。学校の授業で分子の話は中学から出てくるのですが、高校、大学、大学院、それぞれの段階で教科書に書いていることも違って、高校ぐらいでわからなくなる人、嫌いになる人が多い。


よくよく考えてみると、3次元の分子を2次元の教科書に書いて、「分子は動いている」、「水素結合は切れたりくっついたりしている」とか言われても、わかる人の方が少ないですよ(苦笑)。もっと直感的、視覚的に分子を理解してもらえるような教育ツールが必要だと感じていました」


そんな課題を抱えた東大と豊田中研の研究者たちは、何もない状態から自由な発想で会話を続け、課題をぶつけ合い、新しい研究テーマを探り続けていた。
判断基準は「世界で誰もやっていない面白そうなこと」その1点。
自由な学風を誇る東大と自由な研究風土の豊田中研ならではの発想だ。

そしてある時の佐藤特任教授と松田氏の議論が引き金となり、「VR空間においてリアルタイムで分子を触り動かすことで、直感的に分子を学べるアプリの開発と教育現場での効果検証」というゴールが見え、東京大学と豊田中研の共同研究プロジェクトが一気に走り出した。

松田◆
「私は化学が専門ではありませんので、分子がわからない人の気持ちなら分かります(笑)。でも先生の話を聞いて、VR空間内で浮かんでいる分子に触ることができたら、感覚的に分子のことがわかるような気がしました」

佐藤■
「研究者が何年もかけて身につけた分子に関する感覚を可視化することで、一般の人にも瞬時に伝えられると思ったのです。コツコツ時間をかけて問題を解いていたものを、いきなり答を見せて理解してもらうイメージです」

東大はソフト面、豊田中研はハード面

ゴールに向けて、東大と豊田中研がそれぞれの役割で動き出した。

普段は分子構造解析の最先端領域での研究に従事している東大の佐藤特任教授は、VR空間中における分子体験のストーリーや、高校や大学での教育現場で身につけたノウハウなどを提供。それ以外にも、東大からはファカルティディベロップメント(教員の教育能力の向上をはかる取り組み)の教員やVR研究者も参画し、「VR-MD」開発の主にソフト面を担った。

豊田中研は分子動力学(MD)に基づいた分子シミュレータの作成やVR環境の構築、さらには授業に適したデバイス機器の開発といったハード面を担った。

例えば、スマートフォンに眼鏡をくっつけたようなデバイスは、付け焼き刃的なモノではなく両者の役割が存分に発揮されてカタチになったものだ。

松田◆
「私たちだけで考えたら、どうしても最先端でカッコいいゴーグル型のデバイスを使いたくなります。個人的にも新しいガジェットは好きですから・・」

佐藤■
「そんなものを高校生に渡して楽しいアプリを使わせたら、絶対に外してくれない。面白い機器にはのめり込んでしまうので「じゃ時間なので外してください」とか言っても知らん顔だと思います。これに着脱の時間も考えたら、ゴーグル型デバイスでは授業の時間がいくらあっても足りなくなると判断しました」

松田◆
「そんな発想は実際の教育現場を知らないと出てこないですから。加えて、今の形状は周りも見えて都合がいいんですよ」

スマホと汎用立体レンズを組み合わせたデバイス

スマートフォンで分子シミュレーションが動く驚き

ゴールとデバイスの形も決まったものの、実現への壁は非常に高かった。

VR空間内においてリアルタイムで分子に触れて動かすためには、分子動力学(MD)にのっとったシミュレーションがスマートフォン上で動かなくてはならない。これまでの常識では、さまざまな条件データをスパコンやワークステーションに投入し、かなり時間をかけて入手した重いファイルを再生することで、初めて分子シミュレーションの動きを見ることができた。ともかくデータ量が膨大で計算に時間がかかるのだ。

しかし、教育現場で楽しく分子を体験してもらうためには、分子シミュレーションをなんとしても高速化してリアルタイムで体験してもらう必要があった。

佐藤■
「今回のアプリを世界唯一の魅力的なものにするためには、どうしてもリアルタイムで動かす必要がありました。CGのアニメーションでいくら綺麗につくってもダメ。分子に触ったらどうなるだろう、という化学の研究者が頭の中に描いているイメージを体験してもらって学習することが目的ですから、リアルタイム体験というポイントは絶対に動かしませんでした」

松田◆
「性能が低いスマートフォンでMDに則ったシミュレーションを行おうとすると、何より高速化が重要になってきます。正直、この話を聞いて、最初は確実に動くとは言い切れませんでした(苦笑)。それでも、高速化の技術を有する豊田中研の研究者を巻き込むことで、なんとかスマートフォン上でのリアルタイムシミュレーションが実現できたのです。

アプリの狙いを教育に絞って、最低限の要素を盛り込んだプログラムミングに徹した結果、スマートフォン上でも動くほどの高速化を達成できたのです」

佐藤■
「MDは高速な専用サーバーで行うものと思っていましたので、この高速化の技術は本当に凄いと思いました」

インタビュー中もアプリの細かい調整を行っている松田氏

まずは教育現場で効果検証

「VR-MD」はまず高校での授業に使用される予定だ。ダウンロード済みのスマートフォン三十数台により、生徒達はVR空間内で「水」「DNA」「ベアリング」の分子を体験する。

水分子
DNA分子
ベアリング分子

佐藤■
「ここ10年ほど毎年行っている、東京都立武蔵高等学校の模擬授業で「VR-MD」のお披露目をする予定です。


このアプリが楽しいことはわかっているので、実際の授業では「VR-MD」の教育効果はどうなのかを定量的に評価することを重視しています。

ファカルティディベロップメントの先生にもご協力いただきながら、「楽しい化学関係のおもちゃ」で終わることなく、東大でしかできないレベルまで「VR-MD」の教育ツールとしての完成度を高めていきたいと思っています」

松田◆
「まずは一人ずつスマートフォンで分子を体験するというスタイルですが、今後、多人数で相互接続して体験できるように、アプリを強化していきたいと思っています。

例えば、いろいろな分子のパーツを用意して、参加者たちが議論しながら分子づくりを進めていくことができれば、マルチプレイゲーム感覚で楽しく分子を学べそうです」

スマートフォンのような汎用性の高いデバイスで、さまざまな場所からの参加者がVR空間に集い、協働して分子を体験し学ぶ。そんな楽しくて新しい化学の学習スタイルが生まれたら、「化学は難しい」というイメージの払拭に役立ち、アクティブラーニングのような教育手法にもフィットするのではないだろうか。

「VR-MD」をオンライン授業へ応用する議論も東大内では始まっているようだ。

教育ツールには収まらない「VR-MD」の可能性

日本のアカデミアと産業界それぞれのトップレベルの研究者達が、自由な発想で開発を進めた「VR-MD」。この「世界初の楽しく分子を学べる体験型アプリ」には教育ツール以外にも大きな可能性がありそうだ。

最後に佐藤特任教授と松田氏が「VR-MD」の見せてくれる未来について語った。

松田◆
「ものづくりの場面で異分野の人たちが一緒に課題解決するためにVR空間が使えないか、シミュレーションやAIと人がVR空間で協働できないか、そしてその教育効果を評価する手法にはどのようなものがあるのか、これらを検証するために豊田中研は「VR-MD」の開発に参加しました。

教育ツールとしての「VR-MD」は一つのステップです。 今回はスマートフォン単体で完結したシステムを使いましたが、研究やものづくりを視野に入れるなら、高性能計算サーバとVRシステムをネットワーク経由で連携してデータをやりとりすることや、webブラウザ経由でVR環境にアクセスすることで様々なデバイスを利用できるようにすることで、格段にクオリティを高めることが可能です。

高いクオリティのVRが気軽に使えるようになったら、異分野の専門家同士の議論においても、リアルタイムで全員が同じ理解に達することが可能になりますので、異分野コミュニケーションツールとしても活用できるのではと期待しています。今後の「VR-MD」の進化が楽しみです」


佐藤■
「このアプリには化学教育ツールという枠には収まらない可能性を感じています。私は、分子化学の話題で、産学官を問わず、さらに化学を専門とする研究者から一般の人まで、全世代とコミュニケーションすることを目指しています。


私が携わる構造解析研究の最前線では、ジャングルジムみたいに規則的に孔があいた結晶に外から解析したい分子を染み込ませて試料調製する、非常に複雑な過程があります。弱い相互作用を使っていることもあり、今の技術では高精度でシミュレーションするのは不可能です。しかし計算科学が進めば、VR空間において手でつまみながら分子設計できるような研究ツールとして使える可能性もあると思います

また、私が主宰する社会連携講座には分野の異なる19社が、構造解析を目的に参画しています。構造解析したい分子も多様で、共通理解のためのツールとしては3次元で動くアニメぐらいしかありません。もしその分子をVR-MDで触れるようにできれば、分野を問わずに共通理解が進んで協働効果が上がるはずだし、VR空間で分子に触ってもらえるプレスリリースができればとても喜ばれそうですね。 このように、専門の研究者から一般の人までを対象とする多機能ツールとして「VR-MD」を展開していけないかと密かに野望を抱いています」


「自由な発想で全く新しいものをつくろうとしたら、すごく楽しいものができたんだよね!!」嬉しそうに語る二人の姿から、化学の持つ楽しさや知りたいものに触る大切さがひしひしと伝わってきた。
未来を変える技術とは、こんな場面から生まれてくるのかもしれない。

佐藤 宗太 先生

佐藤 宗太 先生

東京大学大学院工学系研究科応用化学専攻 社会連携講座
「統合分子構造解析構造」特任教授

高校在学時、化学の先生のアドバイスで自主実験の結果を論文にまとめ、「化学と教育」誌に投稿。このとき「研究の楽しさ」に目覚める。東大社会連携講座「統合分子構造解析講座」では、SPring-8や高エネルギー加速器研究機構(KEK)PF、あいちシンクロトロンなどを駆使して、分子の構造解析に関する最先端領域の研究に取り組む。「分子の形をピシッと決めることは非常に重要。例えば医薬品の場合、漢方薬は何千年もかけて経験値を積み上げてきた。でも有効成分の分子構造が特定できれば、パパッと合成することができますよね」
異分野の研究者との共同研究も多い。
最先端領域の研究に精力的に取り組む一方で、高校生への模擬授業などの教育活動も継続。
「化学の面白さは実験を通じて物質を見たり触ったりするところ。数式を解くのも大切ですが、リアルに物質を感じて欲しいと思います」

松田 健郎 氏

松田 健郎 氏

株式会社豊田中央研究所
量子コンピューティング研究領域

トヨタテクニカルディベロップメント株式会社、トヨタ自動車株式会社を経て、3年前から株式会社豊田中央研究所に出向。現在の業務はVR・AI・計算技術を活用した人の能力拡張。新技術を他の人たちに広げ、皆が使えるようになることにやりがいを感じている。新しいデバイスやガジェットが好きで、東京の家電量販店で1日を潰すことも平気。
「今学校で学んでいる若い人は、まずは自分の好きなものを一つ持って欲しい。10年20年先の未来社会のことなんて今は全くわからないですが、好きなものが一つでもあったら、そこを自分の軸として、勉強なり大変なことへのモチベーションを維持できる。それが新たな研究者が生まれてくる土台になるかもしれません」

〜本特集記事に関連して〜

<英文テロップ入りのYouTube動画>

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<東京大学工学部・大学院工学系研究科:プレスリリース記事>
2021年11月15日
「動く分子を見て、触って、学べる「VR-MD」誕生 −スマホでサクサク動くVRアプリで楽しく化学を学ぼう!−」
https://www.t.u-tokyo.ac.jp/press/foe/press/setnws_202111151504418325375299.html

<日刊工業新聞の2021年11月16日の科学技術・大学面トップに掲載>
「分子の動きVRで学ぶ 東大・豊田中研がアプリ」

<東京都立武蔵高等学校 出張模擬授業>
「分子を見て触ってみよう: VR-MDをつかって分子間の力を理解する」
2021年11月17日(参加者数:31名)

<豊田自動車 未来創生センターのwebサイト TOYOTA 未来につながる研究 >
「VR-MD」に関連する取り組みを紹介いただきました!

<In the website of TOYOTA Frontier Research in Toyota Motor Corp., Frontier Research Center>
Our achievements related to “VR-MD” were introduced!

<『化学を学ぶ』坂田薫の「SCIENCE NEWS」#10 presented by #8bitNews

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<東京大学工学部・大学院工学系研究科:YouTube プレスリリースインタビューシリーズ>

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<宮崎県立宮崎西高等学校 出張模擬授業>
「柏の葉スマートシティにおける産学連携によるサイエンスイノベーション」
〜 分子を見て触ってみよう: VR-MDをつかって分子間の力を理解する〜
2022年8月5日(参加者数:43名)

<学会での成果発表>

2022年6月2日
日本コンピュータ化学会2022年春季年会
「VR-MD: スマホ VR で実施する分子動力学計算とその教育への適用」
吉川信明、松田健郎、梶田晴司、佐藤宗太、谷川智洋

2022年9月13日
第27回日本バーチャルリアリティ学会大会
「VR-MD: スマホ VR で実施する分子動力学計算の実装」
吉川信明、松田健郎、梶田晴司、佐藤宗太、谷川智洋

2022年9月13日
第27回日本バーチャルリアリティ学会大会
「VR-MD: スマホVRで実施する分子動力学計算による化学教育効果の検証」
松田健郎、吉川信明、梶田晴司、佐藤宗太、谷川智洋

<天津大学分子+研究院 招待講演@オンライン from SPring-8 BL41XU>
2022年11月30日
“New educational tool for molecular chemistry, “VR-MD””

<東京都立武蔵野北高等学校 出張模擬授業>
午前「産学連携に超本気!東大の最先端化学を紹介」の中で、トヨタ自動車 松田様「体験して理解しよう!化学教育用VRアプリ」
午後 トヨタ自動車 松田様「VRで分子の世界を体験してみよう!」
2023年12月18日(参加者:午前約480名、午後約40名)

<近畿大学理工学部:プレスリリース記事>
2023年12月26日
「スマートフォン用アプリ「VR-MD」で分子の世界を擬似体験 開発者が実演を交えて分子科学に関する特別講義を実施」

<近畿大学オープンキャンパス2024>
2024年3月24日
【VR-MD】が近大オーキャン2024に登場!近大 今井研究室のwebサイトで紹介。

<近畿大学オープンキャンパス2024:イベントレポート>
2024年3月24日
約260名にのぼる高校生とご家族様たち来場者にVR-MDを使って化学の楽しさを体験してもらいました。
近大 今井研究室webサイトのイベントレポートはこちら。
近大 理工学部/大学院 総合理工学研究科のイベントレポートはこちら。
近大 応用化学科/物質系工学専攻のイベントレポートはこちら。

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