特集記事

香料分析の新時代

高砂香料工業株式会社 分析研究所 坂口 和彦 氏

香りの世界は未知であふれている
その未知に挑み続けてきた研究者が、
結晶スポンジ法を手に入れ、
香料化合物の構造決定に革新をもたらそうとしている。

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世界有数の香料メーカーが誇る分析研究所

「だれもが驚くような香りの正体を突き止めたい。結晶スポンジ法を使いこなせれば、それができるはずです」

高砂香料工業分析研究所の坂口和彦氏は、そう言って目を輝かす。

高砂香料工業は、香料のリーディングメーカー。世界各地に拠点を有し、食品や化粧品、洗剤、芳香剤などに使用される香料を製造している。坂口氏が所属する分析研究所は、同社の要ともいえる部署だ。天然材料に含まれる香料成分を単離精製して構造を決定する。あるいは合成中に意図せず出来上がった副生成物を解析し、その正体を突き止める。

「香りの成分には、まだ知られていないものもたくさんあります。その構造を明らかにすることで、次の製品開発に役立てることができます」

天然素材から香りの成分を分離し構造を決定
香料の処方作成に役立てる

低分子で低沸点 香料化合物は結晶化できない

通常、香りの“素”を突き止めるには、まずガスクロマトグラフを使って、揮発成分を分離分析する。そこで構造が分からなかった成分は化合物ごとに単離し、NMRや質量分析装置で構造決定する。もっとも、すべての成分を突き止められるわけでもないという。

「ものによっては少し確信が持てないものがあるのも事実です。調べないといけない化合物はたくさんあるので、確信がもてなければいったん脇に置いて、重要度の高いもの、時間をかけずにできるものを優先していくしかありません」

もし結晶化できれば単結晶X線構造解析が使える。X線構造解析は数ある分析手法のなかでひときわ精度よく分子の立体構造情報を得ることができる手法だ。分子の立体化学を100分の1オングストロームの単位で正確に「見る」ことができる。しかし、香り成分特有の問題がある。香りをもたらしているのは空気中を漂う分子だ。揮発するということは、低分子、低沸点で、ほとんどのものは結晶化しない。実際、坂口氏も入社以来、ほとんど使ったことがないという。

香気確認の様子
分離された成分ごとに香りを鼻で確認する

「だからこそ、結晶スポンジ法は大きなインパクトがありました。ナノサイズの穴が規則正しく並んだ文字通りスポンジのような結晶の中に分子が一つひとつ入っていく。結晶化しない化合物でも単結晶のようにみなせる。こんな方法があるのかと心底びっくりしました」

と、結晶スポンジ法と出会った時の衝撃を振り返る。

その技を学ぶため、2016年から結晶スポンジ法を開発した東京大学大学院の藤田研究室に出向。試行錯誤を繰り返し、香料分析にも十分使えそうだとの確信を得ていった。

「NMRではピークがほぼ1箇所に固まってしまって解析できない飽和炭化水素化合物でも、結晶スポンジに入れたらきれいに構造が見える。まさに革新でした」

2年の出向期間が終わろうとする頃、まだ手法に改良の余地があると感じて統合分子構造解析講座に参加。香料化合物をかたっぱしから試し、分析に必要な条件を探っていった。

「どういう条件がよいのかある程度わかってきましたが、たまに裏切られることもあります(笑)。狙っている化合物と溶媒が重なっていたりすると、正しい像が得られないことがあります。そういう失敗を1割以下に抑えるのが当面の目標です」

結晶スポンジ法のサンプル作成の様子

結晶スポンジ法を駆使して 新たな発見を目指す

2018年からは講座に参加しながらも会社のLABに戻り、後輩の指導役も買って出ている。

「香料化合物は結晶スポンジ法と相性がいい。分子が大きいものだと、スポンジの穴に入らないことがあるのですが、香料化合物の分子は大きすぎないのがいいのでしょう」

「サンプルが少なくてすむというのも、結晶スポンジ法の大きな利点です。NMRだとサンプルを作成するための香料原料が10キログラム必要だったのが、結晶スポンジ法なら10グラムもあればいい。溶媒もごくわずかですみますし、時間、労力も格段に軽減する。それだけ未知の新たな化合物にチャレンジするチャンスが増えるのです」

研究者として大事にしていることは「よく観察すること」と坂口氏は語る。

「似たような業務、似たようなデータでも、当たり前を当たり前と思わず疑ってかかる。そこで何か新しい現象が起きているんじゃないかと思うようにしています。もちろん、9割9分は何もありません。でも、そうやってじっくり観察していてこそ、新しい発見と出会うことができるんです」

結晶スポンジ法を携えた坂口氏が、香料分析を新時代に押し上げようとしている。

香料分析のパラダイムが変わったと坂口氏
坂口 和彦

坂口 和彦

高砂香料工業株式会社 研究開発部門本部
分析研究所 技術情報部 研究主任

大学院の農学生命科学研究科で天然物の全合成研究に携わる。2009年、高砂香料工業に入社し、分析研究所で香料成分の構造決定に携わる。2016年、東京大学大学院工学系研究科応用化学専攻藤田研究室に出向し結晶スポンジ法を学び、2017年より社会連携講座「革新分子構造解析講座」に、2020年より「統合分子構造解析講座」に参加している。

世界で初めてメントールの量産に成功した技術力

高砂香料工業の名を一躍世に広めたのが、1983年のメントールの不斉合成技術による量産化だ。メントール(l -メントール)は、ペパーミント(ハッカ)の味や香りの主要成分で、菓子や化粧品、歯磨き粉など幅広く使われる。ハッカ油などの天然資源からも入手できるが、工業的にも大量に合成されている。だが、メントールには原子の並びは同じだが、ちょうど鏡写しの構造をした鏡像異性体d -メントールが存在し、不斉合成技術が登場するまでは、両者を作り分けることができなかった。d -メントールは消毒薬のような香りがあり、混ざれば当然商品にはならない。しかも、やっかいなことにl -メントールとd -メントールは、見分けが極めて難しい。分子量は同じなので、質量分析装置ではピークが重なり、構造を決定できるはずのNMRでも同じピークを示してしまう。それだけに同社の量産化成功は市場から大いに歓迎された。
L -メントールの分子構造(左)とd -メントール(右)。
分子式はともにC10H20Oだが、結合の仕方が異なる
X線結晶構造解析を用いれば、l 体とd 体の違いは一目瞭然になる。同様に鏡像異性体を持つ化合物は少なくない。結晶スポンジ法が普及すれば、これまで合成できなかった魅力的な香りをもつ製品が、続々登場するかもしれない。
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