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低分子新薬開発の上流から下流まで

製薬会社の新薬開発研究における結晶スポンジ法(以下、CS 法)の活躍ぶりは、未だ世には知られていない。

今回はCS法をテーマに博士号を取得し製薬会社で新薬開発に
従事する研究者にスポットをあて、
CS法の具体的な活用について紹介する。

精神神経、がん、再生・細胞医薬品を3本柱として、革新的な医薬品開発に挑む住友ファーマ株式会社(旧大日本住友製薬株式会社)では、上流から下流まで、製品開発研究の幅広い行程にCS法が貢献している。同社内でのCS法の普及・活用の中心となっているのが、社会人学生として東大藤田研で博士号を取得して同社に戻った李 鐘光氏。X線構造解析ワーキンググループを率いて部門横断的に課題解決にあたるとともに、CS法を使いこなせる人材を着実に育成し続けている。

X線解析のど素人が、いきなり東大藤田研へ

李氏は薬学系の修士課程を修了し大日本住友製薬株式会社に入社して以来7年間、有機合成化学をベースに高血圧症や肥満など、生活習慣病治療薬の開発に取り組んできた。社会人学生として東大藤田研に入学したのは2015年4月。博士論文の研究テーマは「結晶スポンジ法を用いた天然物の絶対立体配置の決定」だった。研究室に入れば企業人であっても他の学生と研究環境は同じ。結晶スポンジに化合物をしみこませてはX線解析装置での測定データ解析を繰り返す毎日だ。

「有機化学者であったことと、手先が器用だったので、スポンジ結晶の合成や取扱い自体はスムースに習得できました。しかし、 X線構造解析はど素人。X線測定は思っていた以上に難解で、測定パラメータの設定やデータ解析のやり方や意味を理解するのに大変苦労して、未だにブラックボックスな部分があります(苦笑)。X線解析装置は予約争いが熾烈で、空いている土日によく実験を行っていました。CS法の研究スタイルはとにかく数をこなすことだと考えていたので、X線測定回数は誰にも負けていませんでしたね」

出会いが刺激的!研究室生活

東大での研究内容はほとんどが共同研究であり、国内外の研究者の研究内容を理解し、議論を繰り返すことに多くの時間が費やされた。異分野の知識や技術に加え国内外の研究者たちのスタイルに触れた経験により、視野が広がり総合的な研究能力も向上したと李氏は実感している。

また著名な研究者との交流も体験した。「1987年にノーベル賞を受賞されたJean-Marie Lehn先生に研究内容を発表して誉められたことや、2016年に受賞されたJean-Pierre Sauvage先生への研究発表セッションの座長を務めさせていただいたことはとても強く印象に残っています」

Jean-Pierre Sauvage教授(左から三番目)とのセミナーで 

学会発表も多く、李氏が藤田研の学生として学会発表をはじめた当時は、CS法に関する発表が藤田先生以外なかったため、多くの聴講者からの質問責めにあい、自身の研究テーマへの注目度の高さに驚いたという。

「藤田先生はプレゼンテーションが非常にお上手で、発表に関しては厳しくご指導いただいた記憶があり、大変勉強になりました。この経験は会社に戻ってからも大いに生かされています」

結晶スポンジ法研究会での李氏のプレゼンテーション

D2のときに李氏はCS法の研究成果により天然有機化合物討論会で奨励賞を受賞。藤田先生からかけられた『奨励賞にふさわしい発表でしたね』との言葉は、忘れられない思い出となっている。

会社で部門横断型のX線構造解析チームを編成

東大での研究活動を通じて新薬開発におけるCS法の有効性と可能性を実感した李氏は、博士号取得後に会社の新薬探索研究関連の部署に戻り、CS法による構造解析技術の普及活動を始めた。社内にX線構造解析ワーキンググループを部門横断的に立ち上げて、低分子新薬開発の上流から下流まで幅広い行程をカバーして社内ニーズに応えている。このグループのメンバーは社内のさまざまな部門から集められ、X線構造解析を通じてCS法を習得した後、最終的には在籍部署に戻る仕組みだ。毎年1名程度ずつ人材を育成し、今では社内で5名以上の研究者がCS法を使いこなせるレベルに育っている。

SPring-8でX線構造解析を実施

社内のさまざまな部署から持ち込まれるサンプルはX線構造解析ワーキンググループがSPring-8に持ち込み、X線解析が行われる。SPring-8での滞在は9〜10時間。1日で15〜20種のサンプルの測定を行う。
「SPring-8を利用する最大のメリットは、一般のX線解析装置に比べ1/100程度の微量なサンプルでも測定できること。よく絞られた強力なX線のおかげです。測定時間も通常の1/10程度には短縮できているはずです」 

絶対構造決定の成功率を李氏に訊ねると「1割〜2割」という答えが返ってきた。世界最高レベルの性能を有する測定装置SPring-8を使ってのこの数字からは、改めて構造未知物質の絶対構造決定の難しさを感じてしまう。

上流にも下流にもCS法の活躍の舞台がある

次に、以下に示す住友ファーマの新薬開発研究のプロセスのどの行程でCS法が活躍しているのだろうか?

「開発研究プロセスの上流から下流まで、幅広い行程でCS 法は活躍しています。私が所属している合成研究の部門では、新薬の探索研究段階での候補化合物の構造決定にCS法を活用しています。一方、臨床試験段階の工業化研究では不純物や副生成物というものが問題になってきますが、その構造をいち早く決定しなければならない場面でもCS法が活躍しています。まれに新薬候補化合物の構造が決定しないまま承認申請直前まで進んでいるテーマがあるのですが、そんなときもCS法のおかげでギリギリ構造決定できたという事例も何件かあります」

新薬開発研究の幅広い行程に貢献しているCS法だが、上流と下流では絶対構造決定の難易度には差があるという。李氏が「CS 法はこういう物質の構造決定が得意です」ということを社内で宣伝してきた結果、探索研究に携わる研究者はそれに合った候補化合物サンプルを持ち込んでくれるので、分析の成功率は高くなる。一方、工業化研究の不純物や副生成物については、切羽詰まった状態で正体不明のサンプルが持ち込まれることが多く、分析成功率は低くなりがちだ。

結晶スポンジのバリエーションの充実へ

現在も東大社会連携講座との共同研究を進める李氏の今後の挑戦テーマは、新しいCS 法の開発だ。従来の結晶スポンジは金属と有機化合物でできている箱状の化合物だが、その箱の種類を増やすことで、この化合物はこの箱、あの化合物はその箱、そんな組み合わせのバラエティを増やしていける。

「現状のCS法で対応できない化合物を、まだまだ各社さんがお持ちなので、そんな化合物にも対応できる新しい箱を社会連携講座参加企業の皆さんと探そうとしています。考えられる手法の一つは箱の穴を大きくして、中分子や高分子といった、より分子量の大きな化合物を取り込める箱の開発です。弊社内でも分子サイズが大きい化合物を扱う研究テーマが増えてきていますので、そこにも対応していく必要があるのです。もう一つは、箱に入りやすい化合物の物理化学的な性質に注目して、親水性や疎水性の度合いに適した箱を揃えていきたいという野望を持っています。医薬品は水に溶けやすい化合物ですので、親水性化合物が得意な箱を開発する必要があるのです」

あらゆる化合物を構造解析できるCS法へ

住友ファーマでは、3本柱の事業領域以外の感染症領域をターゲットした研究でも低分子を対象とした部門があり、CS法が活用されている。多剤耐性菌に関連する医薬品でも、臨床研究に入っている化合物が出てきている。このように、さまざまな領域の医薬品開発の幅広い行程に貢献しているCS 法について、8年以上研究を続けてきた李氏は更なる可能性を感じて研究に取り組んでいる。 

「今後は分析対象をタンパク質にも広げて、我々が扱っている低分子化合物がタンパク質のどこに結合しているのかを解明していきたい。タンパク質と化合物が結合している状態を一挙に分析することで、創薬戦略の立案に応用できたらいいなといつも感じています」 

日本を代表する製薬会社の新薬開発研究への貢献を通じて、CS法は人類の健康な暮らしの実現にその足跡を残し始めた。近い将来、さらに汎用的な測定技術として世の中に普及し、今まで以上に広い領域での研究推進や産業創生に貢献することが期待される。 
研究者同士の会話だけでなく、街中や家庭内のコミュニケーションで「結晶スポンジ」という言葉を普通に耳にする時代がすぐそこまで来ているのかもしれない。 

李 鐘光 氏

李 鐘光 氏

住友ファーマ株式会社

リサーチディビジョン 化学研究ユニット第2グループ

主任研究員

2015年4月〜2018年3月まで社会人学生(博士後期課程)として、東京大学大学院工学系研究科応用化学専攻 藤田研究室でCS法に関する研究を行う。現在も東京大学社会連携講座「統合分子構造解析講座」との共同研究を推進中。
「基礎研究の大変さも大切さも理解している企業研究者は、将来の中核技術になる可能性を信じ、基礎研究発展への強い熱意をもって社会人ドクターとして大学院に入学します。だからこそ、困難にぶつかってもへこたれずに頑張り抜くことができ、自身の社会経験を学生の皆さんに伝えながら一緒に成長していけます。社会人ドクターは、基礎研究と社会実装技術を繋ぐことのできる人材を育てる大切な制度だと思っています」

メンバー
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