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わくわくする未来をつくろう

「さあ、本気でわくわくしよう」というキャッチフレーズを掲げる
キリンホールディングスR&D。
科学者の直観を重んじ、熱意で周囲を動かし、
遊び心で固定観念を打ち破っていこうと声を掛け合い、
結晶スポンジ法を大きく発展させる成果を出している。

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科学的な醸造を実現したい

食から医にわたる領域で価値を創造し、世界のCSV(Creating Shared Value=顧客や社会と共有できる価値の創造)先進企業となることを目指すキリングループ。キリンホールディングスが有する3つの研究所のうち、もっとも基礎的な領域で研究を行っているのが、キリン中央研究所だ。疾病予防や身体ケアなど人々の健康に貢献することを目指すヘルスサイエンス領域の研究開発と事業開拓を進めるとともに、食品成分や医薬品原料の効率的な生産技術も開発している。

キリンホールディングスの製品群。ビールや飲料のほか、健康に寄与する有効成分を生かした特定保健用食品や機能性表示食品も製造している

食品メーカーにとって、物質の構造を知ることは重要な意味を持つ。味と香りに寄与する成分は、いわば食品の決め手だ。その成分を特定できれば、おいしさ、安定した品質をコントロールできるようになる。だが、食品のなかには、実に様々な成分が含まれるうえ、決め手となりうる成分は構造が複雑な場合も多い。それらを単離して構造を突き止めるのは非常に手間がかかる。いきおい、これまで「おいしくできた」工程を記録して、経験則で味と香りを再現することも多かったと谷口氏は明かす。

「とはいえ、よりおいしく、品質が安定したものを作っていこうとすれば、経験と勘に頼ってばかりはいられません。物質レベルで構造を明らかにすれば、原料加工、製造工程、そして製品保存中に起きている化学反応を理解することができ、サイエンスを使って製品開発、製造管理ができるのです」(谷口)

科学的な醸造を実現したいと語る谷口氏

 谷口氏が入社した2006年から分析技術は長足の進歩を遂げている。分析装置の感度や分解能が高まり、いつも飲んでいた飲料に、これまで見つけることのできなかった未知の化合物が含まれていることも明らかになっていった。「今は、それらの構造を突き止めることを競っている状態」と谷口氏はいう。

 構造を突き止める際に、一般的に用いられるのはNMR(核磁気共鳴装置)だ。化合物中にある水素原子、炭素原子の場所を特定し、分子の姿を推理していく。しかし、NMRでは化合物の立体構造まではわからない。

化合物の立体構造の模型。角度や向きのわずかな違いで味や匂いは変わる

「立体構造のわずかな違いで、異なる性質を持つ物質はいくつもあります。特に味や香りは立体構造で全く変わってしまう。立体構造を決定したければ、X線構造解析が最も信頼性の高い手法です」

X線構造解析は、対象となる化合物を結晶化する必要がある。結晶にX線を当てると、物質ごとに一定の方向に回折し、特定のパターンを描く。このパターンは結晶内の電子密度の3次元画像そのもので、まさしく化合物の立体構造だ。ただし、サンプル量が少ない物質は結晶を作るのが難しい。また、結晶化そのものが困難な物質も少なくない。誘導体化するなど修飾しても、できるかできないかは運任せ。試行錯誤が伴うため十分量のサンプル準備も必要となる。

「X線構造解析は、NMRほど普及していないため専門的な知見のある人が少ないのです。もちろん私たちにもノウハウがありません。どうしても立体構造を決定したいときは、外部の専門家を頼りますが、それとて必ずうまくいくわけではない。本当に最終手段だったのです」

社会連携講座でつかんだたしかな手応え

それだけに、2013年に東京大学の藤田誠教授らのグループが「結晶スポンジ法」を発表したときは、大いに驚いたという。

「結晶化できない微量の物質でも、スポンジにしみ込ませることで結晶として扱えるようになる。夢のような技術だと思いました」

なんとかその技術を習得したいと考えた谷口氏は、東京で開かれた学会で藤田教授に声をかけ、2017年11月、東京大学が開設した社会連携講座の一員となる。最初に結晶スポンジに取り込ませたのはビールの苦味成分として知られる「イソα酸」。ビールの泡立ちや雑菌の増殖を抑える役割もあるとされる。また、およそ50年もの間、立体構造が間違って解釈されていたいわく付きの物質だ。

「こうに違いないという構造が提案され、私自身もそうと信じていたものが、つい最近になって違う構造であることがわかった物質。明らかにしたのは誘導体化して単結晶化に成功したチームでしたが、私は結晶スポンジ法を使って解析してみようと思ったのです」

イソα酸は、オイル状の物質で、結晶スポンジ法で用いる“分子のかご“とも相性が良い。イソα酸をしみ込ませた結晶が出来上がりX線回折装置にかけると、思っていた通りの立体構造が映しだされた。

手応えを感じた谷口氏は、さらに実験を進めた。ビールは長期間保存していると、苦味や香りが変化してしまう。これはビールに含まれるイソα酸が化学変化を起しているためと考えられている。だがビールの中でどのような化学反応が起こり、どのような物質に変化しているかは未解明なことが多かった。谷口氏は、長期保存したものと同じ状態のビールに含まれる化合物を一つひとつより分け、結晶スポンジ法を用いて、イソα酸が変化して生じた苦味成分13種類の構造を突き止めたのだ。

「食品化学の分野で有名な研究室がこの現象に注目して研究を重ねていましたが、そこですらこれまで5つしか見つけられていませんでした。今回の実験では、他に8つ化合物を見つけ、立体構造を決定することもできた。世界トップレベルの成果だと自負しています」

スキームを独自に改善し、さらなる可能性を引き出す

結晶スポンジ法を習得し、納得のいく成果を出した谷口氏は、キリン中央研究所に戻り、さらなるステップに進んだ。

「結晶スポンジ法に使われるスポンジのフレームワークは水に浸すとボロボロになってしまいます。そのため分析したい化合物を液体クロマトグラフィーで分取しても、直接結晶スポンジ法に供することはできず、いったん分取溶液を乾固し、結晶スポンジに適した溶媒に再溶解させる必要がありました。手間もかかりますし、乾固する際に、貴重なサンプルを失ってしまう恐れもある。ここは改善の余地があると谷口と話し、解決に取り組むことを決めました」

と、谷口氏の研究を引き継いだ後輩の三輪真由佳氏はいう。

結晶スポンジ法をさらに発展させていきたいと語る三輪氏

三輪氏らが選んだのは、分離・単離に超臨界流体クロマトグラフィーを用いることだ。超臨界流体クロマトグラフィーは、移動相に超臨界状態の二酸化炭素と微量の有機溶媒を用いる。分取後に乾固する必要もなく、そのまま有機溶媒に溶けた化合物を結晶スポンジに染み込ませることが可能だ。

 さらに、アルコールやアセトニトリルなどの極性溶媒に耐性を持つ結晶スポンジを探し出した。この二つの改善で、構造決定までの時間は大幅に短縮され、扱える化合物も増加。2021年3月の「日本農芸化学会2021年度大会」でこの成果を発表すると、優れた発表に与えられる「トピックス賞」を受賞した。

「携わっている間中、わくわくし通しでした。私たちR&D本部では、研究開発の志として『さあ、本気でわくわくしよう』という言葉を掲げているのですが、その言葉通り。ここで立ち止まることなく結晶スポンジ法を発展させて、ダントツの技術を作っていきたいですね」

結晶スポンジ法で作製したサンプルをX線構造解析装置にかける北田氏

同じ学会では、2020年から研究メンバーに加わりアプリケーション開発を行なっている北田直也氏も演壇に立った。混合物中に入っている微妙に構造が違う複数の香気成分を、分取から立体構造決定まで一気に実現する方法を考案し成功。オンライン開催だったが、ディスプレイ越しにも参加者の熱気を感じられるほどだったという。

「結晶スポンジ法で未知の化合物を次々と同定して、価値創造に繋がる研究開発をスピードアップさせていきたい。」と語る。

 結晶スポンジ法は、キリン中央研究所のLABOにもしっかりと根を下ろした。次に花開くのはどんなわくわくだろう。

谷口慈将(たにぐち・よしまさ)

谷口慈将(たにぐち・よしまさ)

2006年入社。専門は、天然物化学で、健康効果のある有効成分を天然物中から見つけて、構造を決定することを専門としている。東京大学社会連携講座に参加して、結晶スポンジ法を修得し、現在は後進の育成と、研究成果を活用したビジネスの可能性の検証に従事する。
博士(農学)

三輪真由佳(みわ・まゆか)

三輪真由佳(みわ・まゆか)

2018年入社。以来、キリン中央研究所にあたる部署でLC-MS、GC-MSの分析業務に従事。結晶スポンジ法は2020年度から担当しており、現在、応用技術の開発に努めている。大学時代は栄養学を専攻し、管理栄養士の資格も持つ。

北田直也(きただ・なおや)

北田直也(きただ・なおや)

2020年入社。現在は結晶スポンジ法を活用した応用技術の開発に携わる。学生時代から分析化学を専攻。将来は結晶スポンジ法を駆使して、ビールの製造工程中の化学変化の理解を深め、一人ひとりの好みにぴったりのクラフトビールを作りたいという。

メンバー
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